墓石は大阪にあれば心も安らぐ

現代のように人の行き来が自由でなかった昔は、住民票や戸籍に代わるシステムとして、檀家制度というものがありました。菩提寺の過去帳をあたれば、誰もが先祖のルーツをたどることが出来、人の暮らしは里という共同体にしっくりと溶け込んでいたわけです。現代は土地や家という呪縛から人が自由になった代わりに、過去のルーツやご先祖様たちとの絆もまた、同時に希薄になってしまっています。墓石は大阪でなく田舎にしか無い、といったおうちが増えたことで、日本人の、特に都会人のアイデンティティが希薄になっています。

墓石は大阪に建てるべき、というのは大阪にお住いのあなたにとって、単なる先祖供養というにとどまりません。あなたとご家族の存在を、これまで連綿と続いてきた過去と結びつけることで、より明確な存在として歴史の中に確立する意味も含まれています。日本人の精神構造は歴史的に見てもユーラシアやヨーロッパや中東に代表されるボヘミアン的なものとは大きく異なり、ひとつの共同体が定住して文化を形成する農耕民族のそれなのです。

ボヘミアン的文化に根差した精神は土地ではなく一族の血によってアイデンティティが確立されます。一方日本人に代表される農耕民族においては、共同体と土地と個人が結びつくことでアイデンティティが確立されます。そのキーワードとなるのがご先祖供養でありお墓の存在なのです。墓石は大阪に持って来れば、ご先祖と個人は大阪という土地に根付くことができるのです。

参るお墓が手近に無いということは、それだけ精神の拠り所が遠ざかることでもあります。また、そうであれば真の意味であなたやご家族も、大阪という土地に溶け込んだという意識が持てないでしょう。位牌というのは遠く離れた先祖の墓所を偲ぶために考案された発明品ですが、あくまで代用品でしかありません。やはり墓石は大阪にあってこそ「異邦人」を卒業できるのではないでしょうか。

こうした問題が表面化してきたのも、やはり地方の過疎化ということが何より大きいのだと思います。私事ですが、我が家の田舎、つまり亡父の生地ですが、これが町村合併によってすでに行政上「滅び去った村」でして、先祖代々の墓所が存在する集落など、もうほとんど人が残っておりません。こういうところにあるお墓というのは本当に荒れるのが早く、年に二度のお参りではとても守って行けません。真剣に我が家の墓石は大阪に持ってくるべきと考えるようになりました。

 

墓石を大阪の参考情報  →  http://anshin-boseki.com/